農民から天下人になった豊臣秀吉さん。出世物語としては、日本でいちばん有名ですよね!
では、その家はどうなったのか。ここを知っている方は、ぐっと少なくなります。
調べてみたら、秀吉さんの血をひく人は、孫の代で途切れていました。しかも最後の一人は、鎌倉のお寺で尼として生きています。
そこで今回は、豊臣秀吉さんの家族と、秀頼さんのあとに何が起きたのかを、詳しくお伝えしていきます♪
この記事でわかること
・秀吉の子は鶴松と秀頼の2人。どちらも淀殿の子
・孫は国松と娘の2人
・国松は大坂夏の陣のあとに処刑された
・娘は鎌倉の東慶寺に入り、20世の天秀尼になった
・秀吉の血は孫の代で途切れている
豊臣秀吉の子供は?鶴松と秀頼の2人
鶴松さんは幼名を棄といいます。長生きを願って、わざと一度 捨てる形にした名前だと言われています。ただ、幼くして亡くなりました。
そのあとに生まれたのが秀頼さんです。秀吉さんが亡くなったあと、大坂城は秀頼さんと淀殿の住まいになりました。
天下人の家が、一代で一大名になったわけです。
豊臣秀頼のあと、豊臣の血はどうなった?
秀頼さんのあと、豊臣の家はどうなったの?
秀頼さんには、お子さんが2人いました。国松さんと、その妹さんです。
国松さんは慶長13年、1608年の生まれ。母親は秀頼さんの側室だった伊茶さんとされています。
大坂夏の陣のあと
慶長20年(1615年)5月 大坂城が落ちる
5月12日 妹が捕らえられる(のちに助命)
5月21日 国松が伏見で捕らえられる
5月23日 国松が六条河原で亡くなる(数え8歳)
慶長20年、1615年の大坂夏の陣で、大坂城は落ちました。国松さんは城を落ち延びましたが、5月21日に伏見で捕らえられます。
そして5月23日、六条河原で亡くなりました。数え8歳でした。
妹さんも5月12日に捕らえられています。ただ、こちらは助命されました。ここから先が、この記事でいちばん書きたかったところです。
秀頼の娘は鎌倉へ——東慶寺20世・天秀尼
助命された娘さんが向かったのは、鎌倉の東慶寺でした。
東慶寺の公式サイトには「東慶寺20世 豊臣秀頼公息女」と書かれています。お寺自身が、秀頼さんの娘だと記しているわけですね。
「元和元年(1615)大坂落城後、千姫の養女となり、家康の命により7歳で当寺に入れられた」
「後に、東慶寺20世となり、法名を天秀法泰尼とする」
——東慶寺 公式サイト
千姫さんは秀頼さんの正室で、徳川方の人です。つまり、義理の母にあたる方の養女になって、寺へ入ったことになります。
豊臣秀吉の家族は?母・弟・妹・正妻
秀吉さんのまわりの家族も、名前が残っています。
母 大政所
弟 豊臣秀長
妹 朝日姫
正妻 寧々(のちの高台院)
家 木下氏の出身。杉原氏の庶流にあたるとされる
家族の名前はこれだけ残っているのに、血のほうは続きませんでした。
大坂城はどうなった?起工から32年で落ちた
大坂城についても、公式の記録が残っています。
大阪城天守閣の公式サイトによると、秀吉さんが建てた大坂城が起工したのは天正11年、1583年の9月でした。
その城が落ちたのが、1615年の大坂夏の陣です。起工から32年しか経っていません。
豊臣秀吉の子孫は現在いる?
孫の国松さんが亡くなり、天秀尼さんにお子さんがいなかったためです。
伝承は伝承として、そう書いておきますね。
まとめ
豊臣秀吉さんの家
・お子さんは鶴松さんと秀頼さんの2人。どちらも淀殿の子
・お孫さんは国松さんと娘さんの2人
・国松さんは大坂夏の陣のあとに亡くなった
・娘さんは鎌倉の東慶寺に入り、20世の天秀尼になった
・秀吉さんの血は孫の代で途切れている
天下を取った家が、孫の代で終わっている。そのうえで最後の一人が鎌倉の寺に残っているというのが、個人的にはいちばん意外なところでした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました♪
出典
- 東慶寺「天秀尼」https://tokeiji.com/about/person/tenshuni(東慶寺20世・秀頼の息女・千姫の養女・7歳で入寺・法名)
- 大阪市「大阪城」https://www.city.osaka.lg.jp/chuo/page/0000636470.html(秀頼と淀殿の居館・関ヶ原後の220万石から65万石)
- 大阪城天守閣https://www.osakacastle.net/(秀吉の大坂城は天正11年9月の起工)
- Wikipedia「豊臣国松」https://ja.wikipedia.org/wiki/豊臣国松(生年・母・捕縛と処刑の日付・庶弟の伝承)
- Wikipedia「豊臣鶴松」「豊臣氏」https://ja.wikipedia.org/wiki/豊臣鶴松(幼名「棄」・木下氏/杉原氏の庶流・母と弟妹と正妻)

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