織田信長の子孫は?明治まで続いた4家と家系図も調査!

織田信長の子孫は?明治まで続いた4家と家系図も調査!

戦国でいちばん名前が知られているのは、やっぱり織田信長さんでしょうか。本能寺で終わった、というところまでは、たいていの方がご存じですよね!

では、そのあと織田の家はどうなったのか。ここを知っている方は、ぐっと少なくなります。

調べてみたら、織田家は明治まで残っていました。しかも大名として4家です。ただし、続いたのは信長さんの直系ではありませんでした。

そこで今回は、織田信長さんのご家族と、明治まで続いた4家のことを、詳しくお伝えしていきます♪

この記事でわかること
・嫡男は信忠。本能寺の前に家督を継いでいた
・嫡流は関ヶ原のあとに改易
・明治まで続いたのは弟と次男の子孫の4家
・4家とも維新後に子爵
・岐阜城の城主は織田家で4代

目次

織田信長の嫡男は?岐阜城の2代目・織田信忠

信長さんの嫡男は、織田信忠さんです。

岐阜市の公式サイトにある歴代城主の頁には「織田信長の嫡男。天正3年(1575年)、岩村城攻めで武功を挙げる。同年に織田家の家督を譲られ、岐阜城主となる」と書かれています。

つまり本能寺の前に、家督はもう信忠さんへ渡っていたことになります。ここは意外と知られていないところですね。

岐阜城にいた期間
織田信長 永禄10年(1567年)〜天正4年(1576年)
織田信忠 天正4年(1576年)〜天正10年(1582年)
——岐阜市公式サイト「岐阜城の歴代城主」

信忠さんが岐阜城にいたのは、天正4年から天正10年まで。1582年、本能寺の変と同じ年にその期間が終わっています。

信長さんご本人の岐阜城時代は、永禄10年から天正4年まで。城を息子さんに渡したあとも、天下布武の印はそのまま使いつづけていたとされています。

ちなみに岐阜城の城主には、信忠さんのあとに弟の信孝さんも入っています。そのまた先には、信忠さんの子の秀信さんの名前も出てきます。信長さんの家の人が、この城に代わる代わる入っていたことになりますね。

そもそも織田の一族がどこから来たのかというと、発祥の地は越前国の織田荘、いまの福井県丹生郡越前町にある劔神社だとされています。尾張のイメージが強いので、ここも意外なところでした。

織田信長の嫡流はどうなった?関ヶ原のあとに改易

織田家の嫡流は、そのあと長くは続きませんでした。

関ヶ原の戦いで西軍についたため改易となり、所領を取り上げられています。勝った側につけなかった、というだけの話ではあるのですが、家としてはここが分かれ目でした。

ここで途切れていたら、織田家の話は江戸時代の入り口で終わっていました。

明治まで続いたのは4家——弟と次男の子孫

実際に明治まで残ったのは、信長さんの直系ではありません。

残ったのは、弟の織田長益さんの家と、次男の織田信雄さんの家でした。この2人の子孫にあたる4家が、外様大名として明治維新まで続いています。そして維新のあとには、4家ともそろって子爵になりました。

信長さんの名前ではなく、弟と次男の名前が残った形です。

4家はどこの大名になった?天童と柏原

4家がどこの大名になったのかも、記録に残っています。

信雄の子から分かれた系統
三男・信良の系統 上野小幡藩 → 出羽高畠藩 → 天童藩 2万石
四男・高長の系統 大和宇陀松山藩 3万1千石(のち2万8千石)→ 丹波柏原藩 2万石

ひとつは山形の天童、もうひとつは兵庫の丹波柏原。どちらも、信雄さんの息子から分かれた系統です。

途中で何度か国を移っているので、地図の上では ずいぶん動いています。

将棋の駒で知られるあの天童に織田家が入っていたというのは、言われてみるまでまったく結びつかないところで、調べていていちばん手が止まりました。

岐阜城の城主は織田家で4代

岐阜城の城主の並びを見ると、織田家が4代 続いています。

岐阜市の公式サイトに、歴代の城主が並んでいます。斎藤家のあとが織田家で、途中に池田家と豊臣秀勝さんをはさんで、最後にまた織田の名前が出てきます。

信長さんが城を取ったのは永禄10年、1567年の8月でした。このとき地名を井ノ口から岐阜へ改めています

岐阜という地名そのものが、このときに決まったことになりますね。いまも県の名前として残っているわけですから、地名の付け替えとしては、かなり大きなものでした。

織田信長の子孫は現在いる?

現在のご子孫については、この記事では書いていません。

引いた出典に書かれていないからです。ご存命の方については、ご本人が公にしているぶんを超えて並べないことにしています。

まとめ

織田信長さんの家
・嫡男は信忠さん。本能寺の前に家督を継いでいた
・嫡流は関ヶ原で西軍につき改易
・明治まで続いたのは弟の長益さんと次男の信雄さんの子孫の4家
・維新後は4家とも子爵
・岐阜城の城主は織田家で4代(信長・信忠・信孝・秀信)

天下を取りかけた家が、弟と次男の系統で残っている。この残り方が、個人的にはいちばん意外なところでした。

最後までお読みいただき、ありがとうございました♪

出典

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