沖田総司の死因は?享年が3説ある理由と最期の場所も調査!

新選組でいちばん強かったのは誰か、という話になると必ず名前が挙がる沖田総司さん。剣の天才、というイメージですよね!

ただ、その最期はあまり知られていません。しかも調べてみると、何歳で亡くなったのかが、いまも決まっていないんです。

説が3つあります。24歳、25歳、27歳。どれも根拠のある数字で、どれかが間違いというわけでもありません。

そこで今回は、沖田総司さんの死因と最期の場所、そして享年が3つある理由について、詳しくお伝えしていきます♪

この記事でわかること
・死因は肺結核
・亡くなったのは慶応4年5月30日(1868年7月19日)
・最期の場所は内藤町の植木屋
・享年は24歳・25歳・27歳の3説
・新選組では一番隊組長と撃剣師範

目次

沖田総司の死因は?肺結核でした

死因は肺結核です。ここははっきりしています。

いつ発症したのかについては、いくつかの見方があります。鳥羽・伏見の戦いへ向かう途中で負傷し、大阪へ運ばれる船の中で発症した、という話も伝わっています。

鳥羽・伏見で負けたあとは、隊士たちと海路で江戸へ戻りました。甲陽鎮撫隊にも加わったとされていますが、途中で離れざるをえなくなっています。

沖田総司が亡くなったのはいつ?どこで?

そのあとをみてくれたのが、幕府の医師の松本順さんでした。

松本さんは、沖田さんを内藤町の植木屋にかくまいます。そして慶応4年、いまの暦で1868年7月19日に亡くなりました。

近藤勇さんが斬首されてから、ちょうど2か月後のこと。近藤さんの死を知らないまま亡くなった、とも言われています。

最期が戦場ではなく、植木屋の一室だったというのは、剣の天才という呼ばれ方とは、ずいぶん違う景色ですよね。

沖田総司の享年は?24歳・25歳・27歳の3説

どうして3つもあるの?

生まれた年が分かっていないからです。天保13年(1842年)説と、天保15年(1844年)説があります。

生まれた日にちに至っては、夏だったということしか分かっていません

享年の3つの説と、その出どころ
24歳 沖田家の累代墓碑
25歳 沖田家文書
27歳 『両雄士伝』の上洛時の年齢(22歳)から計算

お墓に刻まれた数字と、家に伝わる文書と、同時代の記録。どれも軽いものではありません。だから3つ並んだままなんです。

こういうとき「24歳で亡くなった」と1つだけ書いてしまうと、たしかに読みやすくはなります。でもそれは、残りの2つを黙って消したことになります。ここは3つのまま置いておきますね。

新選組での役職は?一番隊組長と撃剣師範

新選組での役職は一番隊組長です。あわせて撃剣師範も務めました。

日野市の公式サイトには「新選組では一番隊組長を務め、剣術の腕が非常に高かったと言われています」と書かれています。

幼いころの名前は宗次郎さん。のちに春政、さらに房良と名のりを変えています。

生まれは陸奥白河藩の藩士の家です。江戸の白河藩屋敷、いまの東京都港区西麻布あたりで生まれたとされています。

日野とのつながりは?本陣の道場に出稽古

日野市の公式サイトには、剣術との関わりも書かれています。

「沖田総司は近藤勇のもとで剣術を学び、日野宿本陣にあった道場にもよく出稽古に訪れ、後に新選組隊士となる人たちと出会いました」
——日野市公式サイト

つまり新選組ができる前から、日野に通っていたわけです。のちに同じ隊で戦う相手と、ここで出会っていたことになります。

沖田総司の家族は?姉が家を継いだ

沖田さんには2人のお姉さんがいました。

お父さんの勝次郎さんが弘化2年、1845年に亡くなったとき、長男の宗次郎さんは幼すぎて跡を継げませんでした。

そこで沖田家は、姉のみつさんが井上林太郎さんを婿に迎えて相続しています。

現在のご子孫については、この記事では書いていません。引いた出典に記述がないからです。

まとめ

沖田総司について分かったこと
・死因は肺結核
・亡くなったのは慶応4年5月30日(1868年7月19日)
・最期の場所は、幕府の医師にかくまわれた内藤町の植木屋
・享年は24歳・25歳・27歳の3説。生まれた年が分かっていない
・新選組では一番隊組長と撃剣師範

「享年が決まっていない」という事実そのものが、この人の記録の残り方を表している気がします。

最後までお読みいただき、ありがとうございました♪

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